2006年10月30日

物売りの声

「♪ト〜フィ〜」
少々前のことである。午後の眠気に勝てずに自室で仮眠していた時、ふと、豆腐屋のラッパの音を耳にして目が覚めた。
「え?」
聞き違いかと思った。今時豆腐売り?
「♪ト〜フィ〜」
再び聞こえるラッパの音、聞き違いではない。急にノスタルジックな気持ちが押し寄せてくる。時計を見てみると夕方の四時半だった。
私の部屋からは豆腐屋の姿は見えないが、まさか昔ながらに自転車で売りに来ているわけでもあるまい。自転車に乗ってラッパを吹く豆腐売りのオジさんの姿を最期に見たのはいつだっただろう?
そういえば、昔は良く物売りを見かけたっけ。今ではさすがに少ないが、それでも近年まで聞いていた馴染みの音色もある。

「♪チャラリ〜ラリ〜 チャラリラリラ〜」
昔、屋台のラーメン屋が吹いたチャルメラの音。最近でも冬場になると耳にする。もう随分早くから軽トラの屋台に代わったが。
若い頃には時々買っていた。スピーカーから流れるチャルメラの音を聞いて外に出、軽トラを停める。持参のドンブリを出すと豚骨ラーメンを入れてくれる。ドンブリが無ければ別料金でプラスチックの器となる。癖になるほど美味しいわけではないが、インスタントラーメンよりはずっと美味かった。
巡回軽トラ屋台とは別に、福岡県下には福岡市・北九州市・久留米市に固定屋台がある。売り歩くのではなく、それぞれが屋台を開く場所が決まっている。新しくは許可が出ないので権利が売買されており、組合等もいくつかある。店はラーメン屋だけとは限らない。かつてはスッポン屋とかカクテルを出す店などもあった。福岡の屋台では、昔から焼きラーメンなるメニューが人気だが、個人的にはイマイチである。

「♪石焼〜き〜イモ〜」
未だ全国で聞く声ではないだろうか?軽トラがメインだが、私の幼少時分はリヤカーで売り歩いていた。今もリヤカー売りに拘っている会社があると聞く。昔は焼きイモって安かったんだけど、軽トラ販売になって高くなった気がする。売り声は地方や人によって様々。

「♪大ネギ苗、小ネギ苗〜」
そういえば最近聞かないか?ネギ苗をトラックで売り回る声。以前は頻繁に聞いていた気がする。
余談だが、十代の浪人時代埼玉に住み、東京の予備校に通っていた。自炊で冬は鍋モノをする事が多かったのだが、下宿の近くのスーパーで他の食材と共に小ネギを探した。ところが、いくら探しても小ネギがない。何となく似たものと言えばニラだけ。サイズは似ているが平べったいからこれは違うなと頭を抱えた。九州育ちの私は知らなかったのだが、関東には小ネギがない。九州では「ネギ」と言えば小ネギのことだが、関東では長ネギを指す。九州で言うところの大ネギである。身を持って知った、所変われば品変わるであった。
現在では朝倉で開発された万能ネギ(中ネギ)が全国区になっているらしい。

「♪金魚〜え〜金魚〜」
実はこれはTVでしか聞いたことがない。私のご幼少時分でも、金魚売りをリアルに見た経験はない。風鈴売りなんてのも知識でしか知らない。
金魚売りはいなかったが、近所に金魚屋はあった。ペット・ショップ的な金魚屋ではなく(それもあったが)、金魚すくい屋があったのだ。夏祭りに並ぶ金魚すくい屋が使うのは皆モナカのポイ(金魚をすくう道具)だったが、その店は針金に紙を貼ったものだった。後に網もレパートリーに加わった。小さな投網状のものに紐が付いており、金魚に被せて逃げる方向へ上手く網の口を持っていくと、ポイよりも大きな金魚が捕れる。コイの稚魚が狙えたし、小さなものなら2〜3匹同時に捕れることもあった。後になって夜店の金魚すくい屋でも投網式を見かけるようになったが、その店の網は夜店のものよりずっと大きかったので、かなり良心的だったと言えよう。
白い無精髭を生やし、ステテコに腹巻き、ゴム長靴とうジイさんが一人でやっていたその店は、いつも小学生で賑わっていた。

「♪竿え〜竿竹〜」
昔は竹製の物干し竿を売りに来ていただろう。私の記憶にあるのは既にトラックで売り歩いていたもので、金属製の竿にビニルが巻かれていた。後にステンレス製となる。
結婚後、物干し竿が欲しいと思っていた矢先にたまたま回って来た。その時の呼び込みは
「♪物干し竿はいかがですか?丈夫で曲がらないアルミ製物干し竿。一本千円、十年前のお値段です。」
竿屋を呼び止めると、安い竿はアルミ製ではないので、一クラス上のアルミ竿を買えと言う。少々高かったが、二本購入。包装のビニルを剥ぐと、一本には既にヘコみがあった。高いし曲がってるし、謳い文句とまるで違っていた。(-""-;
竿屋は十年以上たった現在でも、同じフレーズで竿を売り回っている。

「♪ポンッ!」
ポン菓子屋に売り声はない。突然とどこからともなく大きな破裂音がする。集団で遊んでいた子ども達は急に色めきだち、屋内にいた子どもも慌てて飛び出してくる。
菓子はどこにでもあるが、名称は地方によって様々のようだ。「ポンポン菓子」などと銘打ったものが売られているが、我が町では「ポン菓子」と呼んでいた。米を熱と圧力で加工した素朴な菓子である。
米と砂糖を持って破裂音の元を探し出すと、ポン菓子屋のオヤジが作ってくれるた。名も知らぬポン菓子屋のオヤジだった。市内をあちこち回っているのだろう、ある日ふらりと我が町に来ては破裂音を響かせる。その音を聞いて、子どもと大人が集まってくる。今ほど店頭に並ぶ菓子の種類も多くなかった時代である、昔ながらの米菓子にもまだ人気があった。
無愛想なオヤジが、大きな筒状の器具を火で焙りながら黙々と回転させる。中には客が持ってきた米を集めたものが入っている。脇では汚い小鍋で砂糖を溶かした水が煮られている。
頃合いを見て圧力のかかった筒を開封するのだが、その瞬間を見たくて子ども達が集まっている。「ポンッ!」という大きな破裂音と共に、紫がかった白煙がモウモウと立ち上る。子ども達が歓声を上げて煙の中へと突進して行き、忍者よろしく手で印を結ぶ。まだまだ猿飛佐助が子ども達のヒーローだった。
筒から取り出したポン菓子に砂糖を煮込んだ水をかけ、大きなヘラでかき回して完成。持ち込んだ米の量に応じ、手持ちの袋に分けられる。普通は一合単位で米を持って来るのだが、半農だった我が家は一升単位で注文した。できたポン菓子は大きめのビニル袋数袋分になった。保存が利くので、長い間おやつはポン菓子中心となる。
腹が空くとポン菓子の袋を開け、おもむろに手のひらですくってバクバクと食う。食べ方に飽きると、咬まずに呑み込むというパターンもやってみたりする。時々塊になったものが見つかるが、実はこれが狙い目。砂糖水でポン菓子がくっついたものなので、他よりずっと甘いのだ。袋の中をまさぐって、ダマになったものを優先的に探し出して食す。
私の知る限り、我が町に来るポン菓子はあのオヤジ一人だけだった。

鳴り物入りの物売りではないが、かつては小学校の近くや通学路にテキ屋のオヤジが時々出没した。
妖しげなオモチャや手品道具を実演販売する。丸い紙の真ん中に灰色のプラスチック・レンズが付いており、それで指などを見るとボンヤリと二重に写る。
「ホラ、こいつで見ると指の骨が見えるという代物だ。鉛筆を見ると中の芯が見えるよ」
試験管状の細い筒に水に入れてあり、ゴム幕の蓋がしてある。筒の中には赤と青のオタマジャクシ状のプラスチック製器具が入っている。蓋に親指で圧力をかけると、ふたつのプラスチックが重なり合いながら浮き沈みする。
「母さんお肩を叩きましょってね。ホ〜ラ、面白いだろ?」
文字通り子供だましのオモチャである。
「どれも今日しか買えないよ。」
実演を見せられた子ども達は走って我が家に帰り、母親に泣きついて小遣いをせびる。
「凄いもん売っとるったい。今日しか買えんったい。」
小銭をせびることに成功した子どもからテキ屋の元に駆け戻り、気に入ったオモチャを手にして悦に入る。小遣いを貰うのに失敗した子どもは羨ましそうにそれらを眺め、自分にもやらせてくれと友人にせがむ。時には、私も小さな優越感を感じた中の一人にいた。
が、帰宅して戦利品を自慢げに親に見せると、「こんなくだらないモノをっ!」と小馬鹿にされ、幼い自尊心を傷付けられゲンナリしたものだ。

懐かしき我が町の物売り達。
ノスタルジックなあの風景はもはや戻ってくることはないだろう。私は私の少年時代を原風景として、21世紀の日本を生きる。現代とあの頃は、明らかに時代が違う、風景が違う。あの時、町は人の声で溢れ、息づいていた。あれらの風景を目にすることができた私は幸運だったように思う。
あの時、我が町は昭和の日本にあった。
posted by ウッちゃん at 01:02| Comment(20) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月11日

ひとりの友人

ある友人のこと。
ブログに記そうと思っていたが、まだ書いていなかったことに今気付いた。

一頃、よく尋ねていた家族がある。
20代の頃、私が常連となっていた喫茶店を経営していた家族である。
私より年下の次男がマスターをしており、お母さんがそれを手伝っていた。お父さんと長男は郵便局員で、仕事がはけると毎日店に立ち寄っていた。長男は早生まれだが、私と同じ学年だった。
私は知人がそこでバイトをしていたことから来店し、すっかり親子四人と仲良くなって、自宅へもちょくちょく遊びに行くようになた。喫茶店は二年足らずで閉じることになったが、家族との交流はその後も続いた。
長男は私よりも早く結婚し、私の子どもとほぼ同年齢の娘と息子がいた。長男親子も実家に同居していた。私の結婚後も、妻や子ども達を連れて時々尋ねたものである。

私の家庭が崩れだし、私の鬱が酷くなり始めると、いつしか足が遠のいていた。離婚にいたり、生活が乱れる中、たまには顔を出さなくてはと思いつつも、結局顔を出す気力は生まれなかった。
6〜7年ぶりだろうか、私はその家族の元を久しぶりに尋ねた。いやしくも金を借りに行ったのだ。
私が訪れたとき、玄関の外でお父さんが土いじりをしていた。
久しぶりだと互いに声を掛け合った。中へどうぞと誘うお父さんがポツリと漏らした。
「知ってなさったですかね?長男が死んだの。」
青天の霹靂。
とっさに返事ができなかった。
「病気か何かで?」ようやく問うた私に、「事故みたいなもんです」とお父さんは呟いた。
長男が亡くなったのは一年半ほど前の事だという。博識で、ユニークな人だった。後輩に好かれ、上司に疎まれる人だった。細身で非力であったが、芯のしっかりした人だった。駅で身障者をからかう高校生のグループを反対側のホームから叱りとばす人だった。ワルぶってみせても、責任感の強い、根の真面目な人だった。
久しぶりに通された茶の間には介護ベッドが置いてあった。お母さんはすっかり弱っていた。
とても元気なお母さんだった。考えるより早く行動する人で、何事もハッキリと言う人だった。時には辛辣にも感じるその言動が、かつて喫茶店の常連客に人気だった。
長男の奥さんと子ども達は、私が訪れた一カ月程前にマンションを買って引っ越していた。夫のいない家は辛ぎると言って。
私は仏壇に手を合わせた。
お母さんが遺影をかかげ、「息子を見てやってください」と涙した。
「うつ病だったんです。」
その一言で、私は全てを理解した。
どんな手段を取ったのかはとても聞けなかったが、彼は自ら命を絶ったのだ。
「私も灯油をかぶりました。私もずっとうつ病でした。」
私の言葉にお母さんが深くため息をついた。
長男が死んでから、お母さんもうつ病になっていた。昼間も寝たままの生活となり、最近になって、ようやくデイ・ケアに通えるようになったという。

その日は長くその家族と話をした。
夕食を馳走になった後、テーブルを囲み、老夫婦と私は話を続けた。翌日が早い次男は既に就寝していた。
会話が途切れたとき、突然、お母さんがお父さんに問うた。
「あなたは何故あの時、私が自殺しようとしたのが分かんなさったと?まだ夜中の3時くらいだったでしょうが。」
お父さんは苦い顔で、黙ったままテーブルの上に目を落とした。
「ねえ、何で分かんなさったと?あなたは寝てたじゃないですか。」
やや怒ったようにお父さんが口を開いた。
「死にたけりゃ死んでよかっ。もう止めん。おまえが死んだら、オレは次男をほったらかして山ん中で独りで暮らす。」
今度はお母さんが沈黙した。

私が別れを告げたときは夜10時を過ぎていた。
再来を約束し、その家を後にした。
二度と談笑することが叶わなくなった友人を思い、虚ろな気持ちで昔を鑑みる。
もう少し前に尋ねるべきだったか?・・・・・いや、彼が自殺する前に尋ねたとして、鬱が酷かった者同士で何を話せたであろうか?
つまずいた互いの人生へのグチ?己の弱さへの言い訳?甘美な死への逃避の誘い?
おそらくは、まったく助けにならなかったであろう己の非力さに、苦い思いをするだけで終わったであろう。生きることに努力が必要となった時の辛さはよく分かる。私はとても彼の逃避行を止める気持ちにはなれなかっただろう。残された者は無念で悔しい思いをするが、うつ病患者にそれを気遣う余裕は既に無い。
彼はその時を迎え、私は時機を逸した。それだけのことだ。
自殺者の魂に安息がないことを知っていても、その事はまったく抑止力を持たない。彼も、私も、他の人々も。生きることは、もはや我らにとって自然ではないのだ。
我が友人の御霊にわずかな救いあれと、無理にでも願わずにはいられない。
posted by ウッちゃん at 02:04| Comment(11) | TrackBack(0) | 鬱病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月04日

闇病み

少し前のことであるが、固定電話に続いて電気が止まってしまった。 ( ̄ー ̄;
先に携帯がストップしたのだが、さすがにこれは仕事にも影響すると思い、なけなしの金をはたいてこれは直ぐに復活させた。しかし電気代までは手が回らず、遂に止められてしまったしだいである。
こうしてプログの書き込みをしているように、その後何とか復活したのであるが、先月分も未納であり、この先もヤバヤバである。
電気代を三ヶ月分まとめて入金したときも、通電ストップから入金までの期間があきすぎたと言うことで、契約を一旦解除させられていた。(T_T)

私は窓が一箇所しかないマンションに住んでいるので、洗面所やトイレは昼間でも暗く、懐中電灯がないと使うことができなかった。特に困ったのは、換気扇が回らないのでトイレの臭気が抜けないことだった。(;;)
日照時間が長い季節であり、九州という日没が遅い地域であることも手伝って、夜の8時近くまでは何となく窓から薄明かりが指している。が、さすがに8時過ぎると真っ暗になり、何をすることもできない。
仕方なく床につき、入り日と共に寝て日の出と共に起きる生活を目指したのだが、悲しいかな、夜型で生活していた身では夜の8〜9時では眠気がささない。床についてから何時間もモヤモヤしていなくてはならない。
自然と妄想、瞑想、いやいや迷想を浮かべることと相成る。
パソコンすら立ち上げられず、暗い巣穴に籠もった惨めな状態。自分が世に不要なウジ虫のような気がしてくる。うつ病持ちとしては当然のように、死ぬことについてあれこれと模索しはじめる。
鬱病の酷かった頃は衝動的に死にたくなるので、突然飛び降りたくなったり、首を吊りたくなった。が、ここしばらくはそこまでせっかちに幕を引きたくなるわけではなく、低めに安定した落ち込みと潜在的な破滅願望を維持している。自殺についても多少理屈っぽく考えたりする。
マンションの他の住民や後から入る人のことを考えると、マンションから飛び降りたり自室で首を吊ることは避けたい。
やるなら実家か?
理想的には腹かっさばきたいという願望がある。
比較的切れ味の良い包丁を一本持っているが、こんなもので腹を切れるだろうか?長めの刺身包丁でも買ってきた方が良いかしらん?
腹を刺すというのは致命傷になる。内蔵を傷付ければ、時間はかかっても確実に死ねる。ヤクザのデイリでは、昔から長ドスで腹を突き刺すのがセオリーだった。
ただ、腹を割いただけでは即死はできない。
昔、武士が命がけで上の者に意見するとき、あらかじめ腹を切ってサラシできつく巻き、命を賭して上告した。「陰腹」という。
公的な切腹には介錯人が付く。切腹だけでは死ねないので、首を切ってとどめを刺す係りである。
理想的な介錯は、首の前の皮を一枚残して切り落とすことだそうだ。こうすれば、切り落とされた首が懐にストンと落ちて見栄えがよいらしい。だが、並大抵のウデではそう上手くはいかない。
そもそも人間の首には太い頸骨が通っているので、単純に切り落とすだけでも一刀のもととなると難しい。戦国武士は首を切るのに慣れていたかもしれないが、江戸時代の武士ではいきなり介錯しろと言われても難しかったのではないだろうか?
江戸幕府には、介錯を専門に行う役人がいたらしい。公儀介錯人というやつで、劇画「子連れ狼」の拝 一刀の役職がそれであった。
戦国期でも介錯の失敗はあったのだ。
毛利氏の配下である吉川経家という武将が、秀吉二万の大群と対峙して、鳥取城に籠城した。世に「鳥取の渇殺し」と言い、城内は長期に渡る飢餓・水不足で地獄と化した。経家は自分首とひき替えに、部下達の命の保証を願い出て了承される。
開城に先立ち、経家は十字に己の腹を割いた。「よく打つべしっ」と首を差し出しだが、介錯人の手元が狂い首を打ち落とし損ねた。「馬鹿者っ!」経家に一括され、介錯人は二の太刀でようやく経家の首を切り落としたという。
さて、介錯人がいない場合、切腹者は自ら首の頸動脈を切って死すこととなる。これが問題なのだ。
上手く頸動脈だけを切って失血死できれば問題ない。その間の痛みくらいはガマンしなくてはならないだろう。だが、頸動脈と一緒に気道まで切ると大変なことになる。血が肺へと流れ込み、窒息死することになる。これが怖ろしく苦しいらしい。|||-_|||
死ぬにしても苦しんでイクのはイヤだ。窒息死や溺死はしたくない。(>_<)

ありきたりではあるが、楽に死ぬとなると、よくある練炭などでの一酸化中毒死が良いのであろうか?
まあ、こんなことを考えている間は、自殺したりしないんだろうな・・・・などとも考えてみる。
posted by ウッちゃん at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 鬱病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

偏った話しである

PS2ゲーム「戦国無双2」をやっていて気が付いた。
浅井長政って「あざいながまさ」と読むんだ。ずっと「あさいながまさ」だと思ってた。
そういえば昔、斎藤道三を「さいとうどうざん」と覚えたことがある。実際には「さいとうどうさん」な訳だが、「どうざん」の方がゴロが良いような気がして勝手に「どうざん」と呼んでいた。 ( ̄ー ̄;
名称というのは知らないと正しく読めないというものもある。
かつて歴史番組を制作していたとき、ナレーション原稿の佐々成政に「ささなりまさ」とルビをふって、そのまま読ませたことがある。実際には「さっさなりまさ」が正しい。
因みに浅井長政の妻は信長の妹・お市で、斎藤道三の娘は信長の妻・濃姫である。佐々成政は信長の直臣の一人なので、たまたま三者とも信長がらみだった。
蛇足ながら濃姫は美濃から来た姫と言うことでこう呼ばれていたが、本名は帰蝶という。
信長がらみではないが、秀吉に最期まで逆らって、戦国武将オールスターズに取り囲まれて滅んだのは小田原の名門・北条氏である。
「ほうじょう」を私は最初「ほくじょう」と読んでいた。北条という姓は現在でも使われているので、これは単なる教養不足と言える。

人名ではないが、歴史番組をやっていると読み方で間違えることが多かった。私の教養の無さにも困ったものである。
古い歴史書に「続日本記」というのがある。私は最初普通に「ぞくにほんき」と読んでいたら、実は「しょくにほんぎ」と読むのが正しかった。
あるニュース広報番組を担当しているとき、中堅のアナウンサーが「源平盛衰記」を「げんぺいせいすいき」と称した。「げんぺいしょうすいき」と読むのが正しいと後から注意したら、「さすがですね」と感心された。ナニ、私も最初は「げんぺいせいすいき」と読んでいたのだ。

そういえば昔龍角散のCMで、若い男が日本武尊の石像の前ではしゃぎながら、「あの『にっぽんぶそん』の前で写真撮りましょうよ〜。」と叫ぶというモノがあった。
結構以前のことであるが、アナウンサーがニュースで日本武尊を「にっぽんぶそん」、天照大神を「てんてるだいじん」と読んだという話を聞いたことがあるが本当なのだろうか?
戦前なら誰もが「やまとたけるのみこと」「あまてらすおおみかみ」と読めたのだろう。現代教育では記紀神話など教科書で教わらないから。

話がそれるが、九州では日本武尊を祀る神社・社は少ない。日本武尊に成敗された側だからとも思えるが、日本武尊の父親・景行天皇を祀った神社・社は多いのである。
日本武尊は架空の存在で、実際に九州遠征に来たのは景行天皇だったということなのかもしれない。「日本書紀」の景行記はかなり長いので、景行天皇は実在したのだろうと、作家のたかしよいち先生と話したことがある。
天照大神は全国で祀られているが、九州は天照大神の孫・ 瓊々杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨してきた地であり、日向を始めとして各地の神社・社に瓊々杵尊が祀られている。
瓊々杵尊はさすがに知らなきゃ読めないな。
フルネームは古事記では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)、日本書紀では天津日子邇邇杵尊(あまつひこににぎのみこと)となっている。ややこしい。(^_^;
個人的には瓊々杵尊の妻の木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)という響きが好きだ。
神社の姫神は「日女(ひめ)」だったり「比売(ひめ)」だったりもする。
日本武尊の奥さんは弟橘比売(おとたちばなひめ)。日本武尊は日本書紀の記載名で、古事記では倭建命となっている。
私が個人的に惹かれるのは天照大神の弟のスサノウ(これもいろんな字がある)とその奥さんクシナダヒメである。
スサノウは天孫降臨族の頂点である天照大神の弟でありながら、災いを成す荒ぶる神として位置づけされており、天孫降臨族に敵対する歴史背景を匂わせる。且つ、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の英雄譚、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という宝探に要素がひどく惹かれるのである。
八岐大蛇のシッポから出てきたという天叢雲剣は三種の神器の一つであり、後に日本武尊が火攻めにあったとき、草をなぎ払って窮地を脱したことから草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれている。
クシナダヒメは古事記では櫛名田比売(くしなだひめ)、日本書紀では奇稲田姫(くしいなだひめ)となっており、櫛田姫や稲田姫と記載されるケースが多い。
スサノウとクシナダヒメはよく一緒に祀られている。
博多に櫛田神社という有名な神社がある。博多三大祭りである祇園山笠が行われる神社で、地元の人からは「おくしださん」の呼称で親しまれている。
櫛田の名を持ちながら、祭神は大幡主大神・天照大神・素戔嗚(すさのう)大神の三神。素戔嗚の名はあるものの櫛名田比売は祀られていない。ただ、佐賀県神崎町にも櫛田宮というやや小振りな神社があり、こちらでは素戔嗚命・櫛田姫命・日本武命の三神が祀られている。
櫛田宮は私も取材に訪れたことがあるのだが、ご当地では博多の櫛田神社の元になったのが神埼の櫛田宮であると伝えられていた。真相は分からないが、櫛田の名からすれば櫛田姫命が祀られているのが自然のように思える。

うう、何だか話がそれたまま戻らなくなってしまった。
本日はこれまでにしよう。( ̄_ ̄;
posted by ウッちゃん at 16:57| Comment(2) | TrackBack(0) | オタクな話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

時に親であることを思い出す

四月の中頃の日曜日、息子と娘に会った。
離婚裁判において、年三回子ども達に会うという条件が決まっていたのだが、私としては子ども達とのみ一日を過ごすというのがイメージだった。しかし元奥様はそれを許さず、自分も同伴の上、短時間顔を会わせる程度しかさせてくれない。
まあ、元奥様は理屈が通じる相手ではないので、既にそれはあきらめている。元奥様と討論したって鬱が酷くなるのがオチだもの。
裁判時、春・夏・冬の長期休みの時に子ども達と会える場を作るということを裁判官が提案してきて、一応はそれに則した形で面会してきた。
面会は突然決まる。去年の冬休みも突然昼過ぎに元奥様から電話がかかってきて、子ども達が新しい携帯ゲーム機をクリスマス・プレゼントに欲しがっているからとトイザラスまで呼び出された。
私の方が早くついたのだが、売り切れるといけないので、商品をおさえていてくれと言う。
私としては子ども達にプレゼントを送るのはやぶさかではない。ニンテンドーの何タラというゲーム機とソフトを息子と娘それぞれに買ってあげた。いきなりの四万円強の出費は痛かったが、子ども達と会えたことと、二人の喜ぶ顔を見れたのは嬉しかった。
もっとも、満面の笑みを浮かべる息子と違い、自分を出すことがヘタな娘は素直に笑顔は見せない。その辺のヘソ曲がりなのは私に似ているので微笑ましくもある。
が、おねだり・要求はお兄ちゃん以上である。
娘「パパァ、このケースも買って。」
私「別にケースは必要ないだろう。」
娘「いるもん!」
この場合の「パパァ」は甘えた感じではなく、ふてぶてしい感じである。それでも娘はやはり可愛い。
この日子ども達と会っていた時間は15分くらいだった。

先月も突然元奥様から電話がかかってきて、一時間後にと近所のファミレスまで呼び出された。
元奥様と子ども達は少々遅れて到着。元奥様の弟の奥さんと、その長女と長男も一緒であった。ようするに私の子ども達の従妹たちである。
しばしの会食。息子も娘も相変わらず。
息子「最近どんなゲームした?」
息子は大好きなゲームの話し。
「んー、『バイオハザード』シリーズと『戦国無双』。」
『バイオハザード』は、製薬会社のバイオ実験が元で発生した大量のゾンビを倒しまくるというサバイバル・アドベンチャー・ゲームである。以前息子がとてもやりたがっていたが、残虐な人間になるからと元奥様にやらせてもらえなかった。
私「最近当事者に聞いたんだけど、アレ、実話が元になっているらしいよ。」
息子「ウソだあ、ゾンビが本当にいるのは知っているけど。」
そーか、そーか、ゾンビがいるのは意外と知られていたんだ。
私「アレは人工ゾンビだけど、天然ゾンビはスゴイ臭いらしいよ。」
息子「へえ、そうなの?」
こういう会話ができるのは息子とだけだなあ。
娘は何かを言いたげだが、切り出せずにいた。
元奥様から電話がかかってきたときには何か用件があるような雰囲気であったが、特になにも切り出してこない。
食事が終わってファミレスから出たところで、娘が私立中学を受験することになったので小遣いをやってくれと言う。
意味がよく分からない。現在小六の娘が中学受験するのは年明けの話し。まだ先のことであるし、だから小遣いというのも理由になっていない。が、子ども達に小遣いをやるのは別に構わない。
娘「パパァ、お小遣いちょうだい。」
娘も意を決して直接ねだってきた。
残念ながらその時は二千円しか持ち合わせがなかったので、娘に千円だけ与えた。
息子「オレはいいよ。」
気遣い派の息子は断ってきた。
何だかんだと、今回は小一時間ほど子ども達と会えたし、それなりにお喋りもでき、先ずは嬉しかった。

ちょうど一週間後の日曜日の午後、自宅マンションのチャイムがなった。
インターホンのモニターに映ったのは驚いたことに娘であった。数人の友人達と一緒である。
部屋に招き入れようとすると、友人が一緒だからと断られた。
実際に招き入れていたら、部屋の散らかし様と18禁な物品に小言を言われていたなと後から胸を撫で下ろした。
娘「パパお願い、お小遣いちょうだい!」
小遣いほしさとは言え、娘が私の所に直に来たのは初めてのことである。全財産の四分の一の五千円を渡した。一万円やろうかとも考えたのだが、現在極貧状態の身ではそれもできなかった。
娘「アタシが来たの、ママには絶対ナイショね!」
何度も念をおし娘は帰っていった。
子ども達が私と接触することを極度に嫌っている元奥様に知られてはタダでは済まない。子ども達もそれは熟知している。

家賃が払えずにマンションを引き払うことを考えていた私にとって、今後娘が突然尋ねてきたときに、知らない人間が居住していたという事態は避けたいものだと述懐する私だった。
posted by ウッちゃん at 22:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 子どもと私 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

人生50年だし

仕事がない、金がない、気力がない。
現在、勤労の義務と納税の義務を果たしていない私。
諸々の料金滞納しっぱなしで、電話は既に不通だしライフラインもそろそろ危ない。ネットもいつまで繋がる事やら。
家賃を振り込もうとしたら銀行口座が凍結されていて、入金は可能だが振り込みも出金もできなくなっていた。
おかげで家賃も未払い。
実家に帰ることも拒否されたので、そろそろ浮浪者の準備をしなくちゃ。取り敢えず携帯その他の契約を解約しよう。

自分がいかに無能であり、実りのない人生を歩んで来たかが、この八ヶ月ほどの間でよく分かった。
それなりにあると思っていた業界での実績は単なる思い込みだったし、50に近くなると何の作業も与えてはもらえない。結局は組織にへばりついていなくては、仕事をすることすらできないのだ。
ハローワークや派遣会社、就職情報誌等で仕事を探してみるが、40歳以上というのはほとんどない。月々の支払い以下の十数万の職くらい。それでもまあ背に腹は代えられないので、何か始めなくちゃね。
保険料が払えなくて生命保険も解約したので、死んでも保険金下りないし。
車が上手くはねてくれて、苦しまずに逝けるといいんだけどな。親が慰謝料で借金を返してくれるだろうし。

人生の中で独りでない時も確かにあった。それがせめてもの救いか。
無いものはねだるまい。実りのない人生を積み重ねてきたのは自分なのだから。
惨めな終末には孤独がお似合いである。取っつきにくい、孤独な老人を目指そう。(笑)
posted by ウッちゃん at 17:03| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月09日

久々で長い

随分とブログを放置しっぱなし。
元々鬱病だし、もう数ヶ月仕事もないし、自分の価値が見いだせずに陰々滅々と落ち込んでいた。
とにかく落ち込んでいた。
ブログどころかPCすらろくに立ち上げない日々。
それでも何とか生きている。
普段顔を合わせない諸兄には随分と心配をかけてしまった。お叱りもたくさん受けた。
取り敢えずは生きるしかあるまい。
メシも食ってることだし。

とりたてて楽しいこともないし、生き甲斐と感じられることも潰えてしまった。
最近そこそこやってるのはプレステでのゲームくらい。
「バイオ・ハザード」をシリーズでやった。
昔、息子がやりたがっていたが母親にやらせてもらえなかったゲームだ。
製薬会社が成体兵器として研究していたウィルスがネズミを媒体に流出し、人工ゾンビが溢れ出すという内容。ついにはアメリカのラクーン・シティという中都市全体に感染が広まって、市民の殆どがゾンビになってしまう。
ゲームでは最期、大統領判断で町にミサイルが打ち込まれ、ラクーン・シティは灰燼と帰してしまう。
実際にはエボラ出血熱が広まったと情報操作がなされ、町を封鎖状態にしているらしい。
「バイオ・ハザード4」と「アウトブレイク・シリーズ」は当初のシリーズとは別物で面白くない。

他にやってるのは「戦国無双2」。
前作二作もやった。
興味深いのは、「2」にはメイン武将の一人として立花ぎん千代が登場することである。
『ぎん』の文字が私のPCでは出てこない。(T_T)
出てきたとしても、通常では見ている人の画面では文字化けしてしまうだろう。『門』に『言』と書くのだが、イラストレーターで作って張り付けてみた。参照の程を。
ginn.JPG
肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信の母親・慶ぎんもこの字を書く。
「立花ぎん千代」は大友宗鱗の家臣・立花道雪(たちばなどうせつ)の一人娘である。美人だったそうであるが、かなり勝ち気で男顔負けの性格だったらしい。
夫は高橋紹運(たかはしじょううん)の長男の立花宗茂。
紹運も大友家臣団の一人で、道雪と並ぶ超武闘派武将である。大友氏が龍造寺氏や大内・毛利氏等列強から筑前を死守できたのは、道雪・紹運のおかげと言っても過言ではあるまい。
大分市内に戸次川(へつぎがわ)という川が流れている。『戸次』は豊後の地名で、立花道雪は元々戸次鑑連(べっきあきつら)と言った。後に宗鱗から絶えた立花家を継ぐように言われ立花姓を名乗り、筑前の立花城の城主となった。
道雪は当時九州で最も勢力のあった宗鱗の家臣団の中でもケタ外れに勇猛な武将であった。若い頃に雷に打たれて下半身不随となるが、その時刀で雷を斬りつけたとして、その後愛刀を『雷斬丸』と呼称した。
道雪は輿に乗って戦場を駆け巡り、諸侯が狙う博多湾を中心に筑前・肥前で数々の戦を行った。
永く子宝に恵まれなかったが、歳を取ってからぎん千代を授かり、随分可愛がったという。
道雪、紹運、宗茂は私が最も敬愛してやまない武将達であるが、マイナーな存在だと思っていた。が、以外にも中央でも道雪の人気は高いらしい。
私は多くの戦国武将の画像を撮影したことがあるが、道雪の画像はズバ抜けて厳つい顔をしていた。次いでは宗茂のものだ。
さて、道雪は自分の跡取りとして、娘・ぎん千代の婿に非凡な宗茂(当時は統虎・むねとら)を望んだわけだが、困ったのは紹運で、長男でしかも大器である宗茂を養子に出せるはずもない。せめて弟の統増(むねます)の方をと申し出るが、道雪としては気性の荒いぎん千代に釣り合うのは宗茂としかいないとさらに願う。もとより、自分の後を託せるのは宗茂の器をおいて他にいないと考えている。
道雪を畏敬してやまない紹運はついに承伏する。
宗茂が立花城に旅立つ時、紹運は息子に向き合い一降りの短めの剣を渡す。
「戦後の世なれば、いつ自分と道雪公が闘うことになるやもしれん。その時は、この剣で真っ先に私を打ちに来い。」と。
この時の剣は現在国宝となっており、柳川の立花家の資料館に展示してある。(以前は展示してあったが、今も展示してあるかどうかは未確認)
実際には道雪、紹運、宗茂の三人とも、あの時代には珍しく最期まで主君に忠をつくし義に生きた人だった。
道雪は筑後での龍造寺軍との戦いのさなか、後方の陣中で病没する。道雪は宗茂に自分の死を隠し、甲冑を付け陣に座らせておくよう言い残す。が、宗茂は立花城へと退き、道雪を埋葬する。道雪の墓は立花山麓の寺と、柳川の寺にある。
九州三強の覇者・薩摩の島津氏は島原・沖田畷の合戦で龍造寺を討ち取り、その後大友氏の主力部隊を日向・耳川の合戦で打ち崩す。共に島津勢得意のつり野伏せという戦法によるものだった。
(『耳川の合戦』の名で有名であるが、実際には薩摩進攻を行った大友軍は耳川での初戦で優勢となり、島津軍を追っていくうちに木城川でつり野伏せをくらい大打撃を受ける。敗軍は耳川までほうほうの体で逃げ帰り、さらに追い打ちを喰らっている。木城町で取材したとき、『木城川の合戦』と言ってほしいと文化財担当の人がいっていた。(^_^;)
期を捉えた島津義久ら四兄弟は五万の軍勢で九州北進を開始。各地を呑み込みながら宗鱗の本拠地・豊後を蹂躙していく。大友氏に伏していた各地の豪族も島津に便乗、大友氏に反旗を翻す。耳川の戦いで主軸を失った大友軍は総崩れとなり、宗鱗の息子・義統は安心院の城へと敗走。戦下手な宗鱗は秀吉に泣きつきに行く。
紹運、宗茂親子は情勢不安定な筑前の守りにあって、薩摩進攻には加わっていなかった。島津進軍の中、紹運は太宰府・岩屋城に七百余の兵で籠城し、数千の島津軍を足止めする。
友好関係にあった黒田氏や、紹運の戦いぶりに感服した島津軍から何度も降伏の勧めがあった。宗茂も後方・宝満城への後退を勧告する。しかし自分が退けば、島津軍は宗茂の守る立花城へと押し寄せる。息子のため父は最期まで戦い抜き、戦国の世でも珍しい全員玉砕という壮絶な死闘を行った。島津軍の戦死者は二千とも三千ともいう。
落城後、紹運の勇猛さを讃えた島津勢は、岩屋城の近くにその墓を造った。
こんな話しもある。
紹運の家臣に谷川大膳という武士がいた。紹運の名で立花城へ使いに行くことになり、島津軍の目をかいくぐり何とかたどり着いた。宗茂からの返事をもらい岩屋城へ戻ってきたときには城は落ちていた。そうとは知らぬ大膳は島津軍の捕虜になってしまう。
将・島津忠長の調べに対し、堂々と名を名乗る大膳。紹運の兵の勇猛さに感服していた忠長はその態度を気に入り、今までと同じ禄を与えるので自分に仕えぬかと問うた。
それを丁重に断った大膳は、使いに時間をかけてしまって主君と共に死ぬことが叶わなかった。自分は宗茂公からの返事を抱いているが、どうかこれだけは宗茂公に返してもらいたい。それが叶わぬなら、せめて自分の首をはねてから手紙を見聞してもらいたいと涙を流して頼む。
これに感じ入った忠長は、「これぞ武士。紹運殿の名将ぶりが伺える。」と讃え、大膳を解き放ち、自ら手紙を宗茂へ届けるように言ったという。
その後、秀吉の20万という圧倒的な兵が九州に上陸。島津を国元へと追い散らしながら九州を平定する。
以後宗茂は宗鱗と共に秀吉に仕えることとなる。
島津の猛攻に屈しなかった数少ない武将である宗茂は、秀吉から筑後一円を授かる。これに忠をつくした宗茂は、関ヶ原でも西軍についた。島津猛攻、朝鮮遠征、関ヶ原と、自身は一度も戦いで負けず、秀吉をして「その勇猛さ鎮西一」と言わしめた。
忠義と勇猛さは家康の讃えるところでもあり、関ヶ原の後配流されるものの、秀忠の代になって柳川城主としてカムバックしている。これは他に類を見ない。
一度柳川から出ていくとき、彼を慕う百姓達に「出ていかないでください」とすがられたという話しがある。
秀忠に取り立てられるおり、柳川とそれより若干禄高の高い四国の地いずれかを選べといわれ、「柳川の民には借りがあるので。」と、迷わず古巣に戻ったという逸話が残る。

随分長くなった。
立花ぎん千代の話しである。
類い希なる勇将を父に持ち、その気性を受け継いだぎん千代はこれまた勇猛な宗茂を婿に迎えた。
だが、二人はあまりに似ていて引くことを知らなかった。夫婦仲は良くなかったそうである。
ぎん千代はかなりヒステリックな人だったそうで、無骨な宗茂は上手くあしらうことができなかったようだ。
ぎん千代は資料が少なく、私もいろいろ調べてみたことがあるがあまり情報を得られなかった。
関ヶ原の後、肥後の加藤清正が徳川の命を受けて柳川へと兵を進めた来た際、女ばかりの兵を集めて街道に陣をしいという。
実際には清正は宗茂と随分仲が良かった。挑戦遠征中、包囲されたところを宗茂に助けられたことがあり、かなり感謝していたという。
清正は宗茂に投降を勧め、宗茂はこれに従った。その際、清正はぎん千代と宗茂の家臣達の面倒を見ることを約束している。
以前熊本の宇土を取材した際に郷土史家の先生から、ぎん千代は宇土で晩年を過ごし、柳川に帰ることを渇望しながら狂い死んだと聞いたことがある。
宗茂は柳川に返り咲いた際、ぎん千代のために寺を寄進して墓を建てた。私も一度撮影に行ったことがある。

さて、かくもマイナーなぎん千代が何故有名メイカーのゲームのメインキャラとして登場したかというと、メーカーのコーエーの担当者に無理にねじ込んだ人がいるからである。
私の渡した資料ですっかり彼女を気に入ってしまった姫様の手によってである。
発売日がかなり迫ってからのことだ。そのためかどうかは知らないが、「戦国無双2」は発売日が遅れた。
元々ぎん千代の入る席は伊達政宗の母・芳姫が予定されていたらしい。スタッフからは「ぎん千代ってマイナーなんでは?」との声も聞かれたそうだ。
それでもぎん千代が気に入って、すっかり自分と重ね合わせてしまった姫様の手によって、ぎん千代は全国デビューすることとなった。敵役として島津義弘のキャラまでが急遽用意された。
その代わりということで、ぎん千代のセリフはくだんの姫様が書かされたそうである。
「立花なれば!」
作品中、毅然とぎん千代は言い放つ。
「立花なれば!」
姫様もやたらと言い放つ。 ( ̄▽ ̄;
中央にはぎん千代の資料もそれなり残っているらしい。
私も知らなかったが、ぎん千代は男の子として出生届が出され、男子として育てられたらしい。道雪の跡取りとして城主の英才教育が施されたのだ。
成長の後、月のモノが始まったのが家臣に見つかり女であることがバレたらしい。
道雪も咎めを受けたそうだ。
何だか「リボンの騎士」のサファイアか、「ベルサイユの薔薇」のオスカルみたいだ。
ゲーム中では立花家の女城主として登場し、戦場を華々しく駆け抜ける。
「まさに鎮西一!」
秀吉が唸る。
秀吉がぎん千代を気に入っていたというのは事実だが、「鎮西一」と讃えたのは夫の宗茂のことだ。
威風堂々島津に屈しなかったのも、秀吉に義理立てて西軍についたのも宗茂だ。ぎん千代は西軍参加に反対したのだ。
「いいのよ!」
姫様はきっぱりと言い放つ。
「ぎん千代だからいいのよ!」
はいはい。

因みに、真田幸村でゲームを進めていたら、配下に付けることができる武将として穴山小助が登場した。
真田十勇士の中で穴山小助だけ?十勇士の中ではマイナーな方なのでは?これも姫様の指金?
幸村の影武者として家康軍に突撃して玉砕した小助。
幸村と小助の前世は義経と弁慶らしい。
静御前の生まれ変わりの乱姫が「戦国無双」に登場するのも近い?
posted by ウッちゃん at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | オタクな話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

孤独

人は所詮一人ぼっちで生きるもの。
とぼとぼと惨めな人生をさまようだけ。
誰も知らないうちに消えているのだ。
posted by ウッちゃん at 23:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

虚無

虚しさだけの一日。
存在していても仕方のない人間なのだとつくづく実感した。
何も残すことのない人生である。
そんなもんか。
posted by ウッちゃん at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月20日

腹痛

満腹になるまで食べるととたんに吐き気がする。貧血気味になって気分が悪くなる。
最近下痢が多い。精神的なものか?
posted by ウッちゃん at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 鬱病 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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